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R7.9.27 第21回定例会を行いました

  • 8tamachi
  • 11月18日
  • 読了時間: 5分
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こんにちは!

9月27日(土)に第21回目の定例会を行いました。

今回の定例会は、【能代の花街の歴史】について勉強しました!



はじめに

 日本の「花街」と聞くと、多くの人が華やかな着物に身を包んだ芸者や、時代劇に描かれるきらびやかで、どこか非日常的な世界を思い浮かべるかもしれません。

 しかし、その艶やかなイメージの裏側には、私たちが知らない、もっと生々しく、力強く、そして時に悲しい人々の営みが隠されています。

 この記事では、秋田県に残された歴史の記録を紐解き、花街という世界の、より深く、複雑で、人間味あふれる側面を明らかにします。

 私たちが抱く先入観を覆す、5つの知られざる真実を巡る旅へ、ご案内しましょう。



真実1:日中は農作業、夜は宴会へー爪に土が残る酌婦がいた

 

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 きらびやかな世界の住人とは、どのような姿を想像するでしょうか。

昭和50年代の能代の宴席には、私たちの想像とはまったく異なる女性たちがいました。

お酒を注いで回る「酌婦さん」の多くは、若い芸者ではなく、50代前後の地元の女性たちだったのです。

彼女たちの生活には、驚くべき二面性がありました。

日中は畑で汗を流す農家の女性であり、夜になると宴席に顔を出す。

その証拠に、宴会でお酒の瓶を持つ彼女たちの指の爪先には、昼間の農作業でついた土が残っていることもあったといいます。

この「爪の先の土」という一つの情景は、花街に対する華美なステレオタイプを力強く打ち破ります。

それは、この文化が、地に足をつけ懸命に働く女性たちの生活と共存していたという、何より雄弁な証拠なのです。


真実2:「秋田美人」の初代モデルは、川反の芸者だった


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 爪に土を残しながら働く女性たちがいた一方で、秋田市の中心地・川反の花街では、芸者たちが地域の美の象徴そのものへと昇華されていきました。

今や全国に知られる秋田美人という言葉。

その美の原型となった最初のモデルが、実は川反の芸者たちであったという事実は、あまり知られていません。

 料亭や芸者置屋が立ち並び、川反が花柳界の全盛期を迎えた大正時代、彼女たちは地域の顔となりました。

 しかし、その背景には見過ごされがちな社会構造がありました。

 記録によれば「農村の貧困層が人材を供給し、富裕層や大地主が日夜宴を開催」していたのです。

 地域の美の理想が、最も貧しい農村から来た女性たちによって体現され、それを享受していたのが最も裕福な層であったという事実は、彼女たちの存在が持つ光と影を深く物語っています。


真実3:華やかさの裏にあった、悲劇と祟りの物語


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 花街の華やかさは、常に過酷な現実と隣り合わせでした。

 能代の歴史には、その暗部を伝える伝説や事件が数多く刻まれています。


 ある伝説は、播磨(現在の兵庫県)から来た船乗りが遊女たちを騙して小舟で殺害した悲劇を伝えます。

以来、播磨の船が能代に近づくと、「風もないのに大波がたち」祟りが起こると語り継がれました。また、故郷へ帰りたい一心で放火し、獄中で病死した14歳の少女「しげ」の記録も残ります。 

さらに、借金を苦に後谷地の砂防林で自ら命を絶った遊女もいました。

彼女たちがいかに逃れられない状況に置かれていたかは、当時の契約書が冷徹に示しています。揚屋の遊女証文に抱え主の気に障りどのような折檻を受けても親元は異議を申し立てないとあった。殺害、絶望の末の自死、叶わぬ帰郷の夢。きらびやかな宴の裏には、女性たちの自由のきかない、あまりにも残酷な現実が横たわっていたのです。


真実4:芸は一生もの。80代の元芸者が見せた魂の一打


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 しかし、彼女たちの人生は悲劇だけで語られるべきではありません。その魂には、生涯をかけて磨き上げた「芸」という誇りが宿っていました。

土地の古老が語ってくれた、ある結婚披露宴でのエピソードが、そのことを鮮やかに示しています。

宴の舞台に、一人の元芸者が上がりました。

80歳を超えたその女性は、よたよたとおぼつかない足取りで太鼓の前に立ちます。

誰もがその体を心配した、次の瞬間。彼女が撥(ばち)を握った途端、その姿は「シャキッとして」、力強い一打を打ち始めたのです。その一打は、彼女の人生そのものでした。

年老いた体に刻まれた芸の魂が、時を超えて燃え上がった瞬間だったのです。



真実5:現代への架け橋ー「伝統芸能」として花街文化を捉え直す


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 近年、「あきた舞妓」の取り組みなど、秋田市や湯沢市でも花街文化を現代に復活させようという動きが生まれています。

しかし、この文化を未来へ繋ぐためには、過去の悲劇から目をそらさず、私たち受け手側の意識を変えることが不可欠です。

この転換の本質は、以下の言葉に集約されています。

現代への復活では、昔のようなお酒のイメージや時代劇に出てくる「近こう寄れ」イメージではなく、日本の伝統的な民俗芸能のひとつとして鑑賞する心構えが必要。

これは、かつての遊郭の搾取的な側面から文化を意識的に切り離し、彼女たちが磨き上げた唄や踊りといった「芸」そのものを、守り伝えるべき伝統芸能として捉え直すという、倫理的な選択に他なりません。

かつて存在した過酷な現実を直視するからこそ、その芸術的価値を正当に評価し、未来へ継承する責任が、現代に生きる私たちにはあるのです。


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おわりに

 秋田の花街の歴史は、私たちが抱く画一的なイメージよりも、遥かに複雑で、泥臭く、そして人間味に満ちています。

 爪に土を残した酌婦、地域の美の象徴となった芸者、悲劇の運命を辿った遊女、そして老いてなお魂の芸を見せた元芸者。彼女たちの姿は、一つの言葉では到底語り尽くせません。

 この多様な顔を持つ女性たちの記憶を未来へ繋ぐとき、私たちはその「美しさ」と共に、爪に残った「土」や、流された「涙」をも、等しく記憶する覚悟があるだろうか。

 その問いこそが、文化の継承という行為の重みを、私たちに教えてくれるのです。

 


追記

花街文化の復活について

秋田市や湯沢市で芸者体験が出来る場所があります。

 2018年に約30年ぶりとなる秋田川反芸妓連の復活が果たされました。

 季節の踊りや全国的に定番のお座敷ものの他、秋田川反花柳界にしかない独自の芸を磨いています。


 主宰しているのは、元湯沢市役所職員であった阿部一人さん。

 「湯沢市の魅力をもっと県外にPRして街を活性化させたい」と立ち上げました。




次回の定例会は12月の予定です!

 
 
 

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