R7.12.19 第22回定例会を行いました
- 8tamachi
- 1月13日
- 読了時間: 4分

こんにちは!
12月19日(土)に第22回目の定例会を行いました。
今年最後の定例会、テーマは何にしようか悩んでいました。
そんな折、当店のお客様でもある藤田果樹園さんから梨のお話を聞く機会がありました。
とても興味深かったので、今回は教えていただいたお話を基に、【能代梨の歴史】について勉強しました!
能代梨の歴史:明治から続く伝統と進化の歩み
秋田県能代市の名産品として知られる「能代梨」。 その歴史は古く、明治時代にまで遡ります。 土地の気候を活かし、先人たちの情熱によって育まれてきた能代梨の歩みを紐解きます。
1. 能代梨の夜明け:明治時代の導入と普及
能代梨の歴史は、明治13年に山木勇吉が和梨の苗木を購入し、育てたことから始まりました。その後、明治26年には藤田成房が川崎(現在の川崎市)から梨の苗木を導入して栽培を開始し、これが本格的な導入時期とされています。
この時期に導入された長十郎や早生赤(わせあか)といった品種が、後に能代梨の名声を高めることになります。 栽培当初は黒星病や赤星病に苦しめられましたが、熱心な果樹研究者であった村井菊蔵がボルドー液の使用を普及させたことで、栽培が安定しました。また、明治28年にはアメリカから洋梨のバートレットが伝わり、洋梨の栽培も始まりました。 村井菊蔵は能代の地で洋梨の結実試験を行い、独自の品種に「村井1号」「村井2号」と名付けて全国に公認されるなど、能代梨の発展に大きく貢献しました。

2. 「木都・能代」の繁栄と梨の広がり
明治23年頃から始まった果樹園は、悪戸や中川原など市内各地へと広がっていきました。能代でこれほど梨栽培が盛んになった背景には、砂地や気候が梨の生育に適していたこと、そして村井菊蔵のような情熱的な研究者がいたことが挙げられます。
また、当時の能代は「木都(もくと)」と呼ばれ、木材産業の革命により全国から人が集まる活気あふれる街でした。
柳町には多くの芸者衆が集まり、彼女たちが帰省の際にお土産として梨を買い求めたことで、能代梨の知名度はさらに上がっていきました。
当時の人々にとって、梨は非常に喜ばれる贈り物だったのです。

3. 送り梨の変遷と作業スタイルの進化
能代梨は、時代と共にその輸送方法や作業の姿も変化してきました。
★ 昭和30年代のスタイル
梨の袋掛け作業では、頭に手ぬぐいを巻き、足元は足袋に「箱げた」という独特の装いで作業が行われていました。

★輸送技術の進化
昭和30〜40年頃は鉄道を利用した発送が主流で、リンゴ箱と同じような木箱に、緩衝材として稲のもみ殻を詰め、1個ずつ紙で包んで送られていました。

★トラック便の普及
昭和40年代後半からトラック便が普及し、箱も木箱から段ボール箱へと変わりました。昭和54年には緩衝材ももみ殻から紙へと変わり、現在のように梨専用に開発された段ボールや緩衝材が使われるようになりました。

かつては輸送が困難だった地域へも、技術の進歩によって届けられるようになりました。
平成5年には、作家の灰谷健次郎氏が能代の名産「日面紅(ひめんこ)」を小説で絶賛し、実際に能代から沖縄の離島へ空輸で届けられたという心温まるエピソードも残っています。
4. 品種の交代とこれからの能代梨
かつて能代の名産として親しまれた長十郎や日面紅、バートレットなどは次第に姿を消し、現在は幸水、豊水、あきづきといった品種が主流となっています。

また、秋田県独自の取り組みとして、平成21年2月には秋田県果樹試験場が開発した新種「秋泉(しゅうせん)」が登録されました。
この秋泉は秋田の特産品として、地元の梨農家によって大切に育てられています。
現在、能代梨は最盛期に比べると果樹園の数は減ってしまいましたが、今でも市場や直売所を通じて地元で愛されているほか、全国各地へと発送され、その味を届けています。
いかがだったでしょうか?
普段何気なく食べている梨にも、長い歴史と先人の努力がありました。
今回それを知ることができてよかったと思います。
能代梨をつくっている農家は、近年どんどん減ってきています。
いつか貴重なものになってしまうのでしょうか・・・。
わたしたち消費者にできることは、たくさん食べて応援することです。
地元の梨を今年もいっぱい食べて応援したいと思います。
次回の定例会は3月を予定しております。




コメント