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R7.6.21 第20回定例会を行いました

  • 8tamachi
  • 11月14日
  • 読了時間: 8分

更新日:11月17日

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こんにちは!

6月21日(土)に第20回の定例会を行いました。

春先に曇り空の多い不順な天候が続きましたが、最近ようやく暑い日も出てきましたね!

今回は東北に甚大な災禍をもたらした、

【天明の大飢饉と天保の大飢饉】

について勉強しようと思い、みんなで集まって話し合いました。


天明と天保の大飢饉、その間およそ50年。

能代山本地方を中心に、秋田藩も含めた当時の全国の様子も探っていきます。


天明の大飢饉(1782~1788年)

天保の大飢饉(1833~1839年)


この2つの飢饉は江戸時代に起こりました。

江戸時代は農業技術が未発達で交易も限られていたことや、藩政の政策も未熟であったことから、天候不順は凶作に直結し飢饉に陥ったようです。

当時の凶作の頻度

凶作の原因

・大体1~2年おきに不作

・農業技術

・数年おきの凶作

・貧困

・数十年に一度の大凶作

・自然現象

   豊作は稀であったようです。

・虫や獣害


・災害や政策


天明の大飢饉以前の能代山本地方の主な天変地異・地震の記録

1694年(元禄7年)

能代山本西北部大地震 

死者300人、焼失720軒、潰れ412軒 /半壊1132軒

1704年(宝永元年)

能代以北地震

死者58人、焼失758軒、潰れ435軒/半壊1193軒


天明の大飢饉(1782~1788年)


東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。

天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。

道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。

空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。

約30年前の宝暦年間(1751年 - 1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。


こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。

被害は東北地方の農村が中心。

天明7年頃には江戸や大阪で米屋の打ちこわしがあった。

(Wikipediaより)



天明3年(1783年)大凶作、正月16日朝から東風、昼から吹雪、

         以後偏東風による長期低温、霜降冷害があった

同年8月29日   津軽大凶作のため人々が秋田仙北へ多数流入。

         二ツ井、鷹巣で多数の行き倒れがあった。

         秋田藩では八橋村に貧民救済所の設置を行った。

         この年は、浅間山の大噴火もあり、噴煙による日照不足の冷害、

         火山灰の降下による被害もあった。

天明4年(1784年)凶作   

天明8年(1788年)凶作 六郷で米価暴動打ちこわし


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天明の飢饉は能代でも飢餓に倒れるものが多数あったと伝えられています。

旧浄徳寺南端墓地には、津軽方面の流民の死骸を多数まとめて埋めた記録(纏穴:まといあな)があるという。

当時の津軽・南部の惨状は秋田よりも酷く、生き地獄であったため、秋田を目指すが亡くなってしまった。

天明4年11月までに1万数千人の流民が発生。

そのうち、10分の1は途中餓死であった。

流民の10分の1は戻り、一部は関所越えを果たした。

残りは付近の山中へ散らばり、山菜木食などで食つなぐ。

雪が降るころまでに全滅したと言われている。

天明3~4年ころ、南部藩で多数の人肉喰い事件があった。

生首38個、人肉の塩漬け樽が発見される。

人肉を常食している者は、男女問わず赤ら顔で、目も三角になっており、

ひとめでわかるという。

(天明三癸卯ノ歳大凶作天明四辰ノ歳飢渇(けかち)聞書より)


 山形米沢の上杉藩では上杉鷹山公(うえすぎようざんこう)の治世で宝暦(1755)の飢饉を教訓に改革を始めていて、天明の大飢饉の際は被害が軽微だったといわれる。

食用にもなるウコギの垣根の植栽、笹野一刀彫の復活など米作に頼らない産業振興策などを行った。



天保の大飢饉(1833~1839年)


主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。

東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きかった。

寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の大飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つに数えられる。

(Wikipediaより)



天保元年頃 能代町の人口推定7,042人 1315戸数

天保2年(1831年)不作(地域により豊作の記録もあり)

天保3年(1832年)凶作、気候不順

天保4年(1833年)異常気象、凶作

同年   津軽・南部藩大飢饉、流民多数押し寄せる。北日本で米作壊滅。 

  この年、城下では救済米などで一説には餓死者はなかったものの、

     翌年疫病流行で数万人死亡したという。(東北産業経済史より)

  徳川吉宗が青木昆陽に西日本で普及していたサツマイモの栽培を

     関東で研究するよう命じた。

      (昆陽はサツマイモを薩摩から取り寄せ、小石川御薬園などで試作栽培を

      行った後、千葉県などに苗を普及させ、関東での栽培を成功させました)

天保5年(1834年)春から疫病が流行り、藩内全域にわたり餓死者続出。

     その数52,000~70,000人と言われている。

  通常2%前後の死亡率が、天保5年には18%に急増。

      能代町1軒に1名死亡。

    越後大阪より米買い入れ。

天保6年(1835年)8月1日午後7時頃、能代打ちこわしが起きる(60~70戸)

天保7年(1836年) 凶作、暴風雨

天保8年(1837年)大塩平八郎の乱(大阪)

天保10年(1839年)凶作、米価、7年の2倍

天保11年(1840年)仙北郡不穏のため、藩主義厚巡察 豊作の記録

天保12年(1841年)凶作、霖雨

天保13年(1842年)大豊作


天保大飢饉の初期の予兆


県南羽後町にて

 三度の春雷があった。

 天候異変。

 4月5日から5月25日まで雨が降らず水不足となる。

 5月末から冷気がちの天候。

 6月末、時々の降雨から大雨で三度の洪水発生。

 そのうちの一回は大洪水になる。

 土用中は連日寒冷。

 単衣を着る日はない。

 田の草取りをする際は、藁の火をおこし、綿入れを着て作業していた。

 7月は連日の雨となり、寒冷な気候だった。

 時に長雨となる。

 お盆の8月16日には田畑が冠水するほどの洪水がおきた。

 あまりの異常気象から、この頃から大凶作を予想していたという。

 下院内というところでは、山へ入りヤマゴボウの採取、大根、フキ、栗、松皮餅、そば、みず、栃の実などを藩のなかでも早く準備し、備えたという。

 8月3日鳥海山に初冠雪。

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能代町の天保の家毀し事件


天保6年(1835年)8月1日午後7時頃、寺々の鐘打ち鳴らし盤若町方面から150名が徒党を組み乱入。

馬口労町、川上久五郎宅が最初に襲われた。

ついで富町の南部屋酒造、油屋播磨作兵衛、八百屋茂兵衛、今立屋など60~70戸ほどが襲われたという。

この集団は顔に墨や朱を塗り(べらぼう凧のような化粧顔?)異様な装束を着て竹槍やムシロ旗を立て、隊伍を組み、最後には300名まで膨れ上がったという。

この事件は馬口労町揚屋なる俗称スミコから打ち壊しがはじまったということで、スミコ事件と呼ばれる。

当初はなかなか捕まらず、暴徒の金沢という者が乱入した際、漆を砂糖水と間違って飲んで重症となったことから発覚し、関連して50余名が次々と捕縛されたということである。

正体は沖仲仕(おきなかじ:港で本船と艀(はしけ)の間で貨物を積み降ろしする港湾労働者のことという説もある。



天保の大飢饉時のいろいろな事件


餓死した母親を乳児が知らず、嬉々としてお乳を飲もうといろいろ触っているが、やがてその乳児も乳房をふくんだまま死せりという記録がある。


昭和58年春先、八森海岸道路工事で親子4人の人柱を発見。

天保飢渇の頃、津軽から流れてきた親子4人が空腹に耐えかね、八森の民家に盗みに入り発覚。4人を生き埋めにした記録がある。

発見された遺体は松源院で供養された。


秋田の若者が、宮城県塩釜の越後屋に奉公に出ていたが、秋田の惨状を知り古里へ帰る。

生まれ育った村に入ると誰もいない。

猫の子一匹いない。

自宅に帰るが人がおらず、隣の家の裏屋敷を見に行くと、自分の兄がひとりだけコモを被って寝ていた。

両親や妻子のことを聞くと、みんな餓死し、それをみんなで喰ったという。

ここに長居すると殺されるから、早く帰れと言われた、という記録がある。


このような究極の食糧不足に陥り、山に自生する野草や、生息する獣を喰いつくした後は、草の根、木の皮、松の皮、さらには犬猫、ネズミ、土までも食べたという。



共通する背景要因


両方の飢饉に共通する背景として、江戸時代の16~19世紀にかけて小氷期(しょうひょうき)と呼ばれる、近年では最も寒冷な時代であったことが挙げられます。

この長期的な気候変動と古い幕藩体制が、東北地方における度重なる冷害と飢饉の根本的な原因となっていました。

秋田藩は両方の大飢饉において、東北地方の他の藩と同様に深刻な人的・経済的被害を受け、藩政運営にも大きな影響を与えたと考えられます。


また、両大飢饉は「不作→飢餓→疫病→社会不安」の連鎖となり幕藩体制の統治能力の限界を露呈。幕末期動乱の序曲となります。

  


以下、今回の勉強についての会員のまとめです。


今回は大飢饉に焦点を当てました。

近い将来の日本で人々が餓死するほどの大飢饉は起こるでしょうか?

近年では太平洋戦争時に、南洋諸島やアジアで戦争飢餓状態が発生し、ネズミや人肉まで食べたということもあったようです。

現代では農業技術や医学が発達し、諸外国からの米の輸入で簡単に不足が補える体制にあります。

ちなみに秋田県は食料自給率が170%(2022年度カロリーベース)だそうです。

強いて大飢饉がおこる要因をさぐるとすれば、南海トラフ大地震、富士山大噴火、大原発事故や、攻撃による沢山の国土汚染、戦争による食糧封鎖、日本沈没、その他が考えられますが、可能性はどうでしょうか?


 学んでためになることは、大飢饉から各藩で備荒貯蓄(びこうちょちく)を始めたということです。

これも有能な為政者がいたところほど、早く始まったようです。


 現代では餓死はないということで、備荒貯蓄の制度は明治に廃れましたが、1993年の米の不作を受け、1995年に備蓄米制度を国の制度として発足しました。

100万トン(10年に一度の不作にも供給できる量)を備蓄しています。

ただ、そのやり方や内容についてはもう少し精査する必要がありそうです。






〔参考文献〕

能代市稿 第4 近世 下編 昭和34年 能代市市史編纂委員会

八森町誌 平成元年 八森町編

秋田県史 第3巻 近世編 昭和52年  秋田県編

 
 
 

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