top of page

R8.6.20 第24回定例会

  • 8tamachi
  • 6 日前
  • 読了時間: 5分

こんにちは!

6月20日(土)に第24回目の定例会を行いました。 私たちが普段何気なく目にする「地名」の背後には、時代を動かした商人や職人たちの活発な活動が隠されています。 今回は、日本各地に分布する「荒町」という地名について、史料を基に話し合いました。



1. 「荒町(あらまち)」はなぜ広い地域に分布しているのか


 北は青森県鰺ヶ沢町から、南は能登半島の七尾市まで、日本海沿岸や北日本一帯には「荒町」「新町」「万町」「阿良町」「鞠町」といった町名で、約70もの市や町が存在しています。これら「あらまち」は、本来すべて「荒町」という表記・発音の町名に由来しています。  なぜ、これほど広い地域に「荒町」が分布しているのでしょうか。 その理由は、中世に台頭してきた地域権力者や、その経済を支えてきた「商人司(あきんどつかさ)」、そして「神人(じにん)」たちが、この町名を必要としていたからに他なりません。



2. 中世の経済を支配した「商人司」と「神人」

 「商人司(あきんどつかさ)」とは、中世において一定の地域の商業活動や金融取引を支配してきた頭領(リーダー)のことです。  中世の北日本一帯を支配した商人司は、会津高田町の「簗田(やなだ)氏」であったと言われています。 一方、「神人(じにん)」とは、神仏に直属する「神奴(かみやつこ)※」のことであり、諸国を自由に通行できる特権が保証されていました。彼らは廻船人※や塩商人などと深く結びつき、北陸以北では、近江国(滋賀県)の日吉神社大津神人に統轄された「北陸道日吉神人」の進出が顕著であったと伝えられています。

※神奴・・・・神社に仕える下級神職や、掃除などの雑役に当たった賤民。かみやつこ、かみのみやつこ、かんやっこなどと呼ばれる。 ※廻船人・・・廻船を用いて海運を行う経営者や、その業務に携わる商人・業者を指します。自ら船を所有して運航する船主(船持ち)もいれば、荷主と船主の間に入って仲介を行う問屋を指す場合もあります。



北前船(廻船)
北前船(廻船)


3. 荒町が意味する「神聖なる交易の場」


 では、なぜ「荒」という文字が使われたのでしょうか。

 「荒」は「荒魂(あらたま)」という、災害や災厄をもたらす一方で、その後には豊かな恵みをもたらすという荒々しい神を表しています。  中世の交易は、世俗との縁の切れた「無縁」の空間である「市庭(いちば)※」において、神仏に近い仲介者(神人など)によって行われていました。  つまり「荒町」とは、単なる居住区ではなく、宗教的な感覚に守られ、商品取引や金融決済が法的に保証された特別な空間(地頭方市庭)だったのです。


 13世紀後半になると、銭貨だけでなく、「割符(さいふ)」と呼ばれる為替手形による決済や送金が広く普及しました。  この取引には高い信用性が必要であり、信用保証人である「保頭(ほがしら)※」が居る町こそが「荒町」でもありました。 13世紀から16世紀にかけて、日本海沿岸の港町(湊町)や内陸の河川縁辺には多くの都市が生まれ、廻船人や商人が集まりました。 荒町には特産物を求めて各地から人々が集まり、酒や鳥、魚などを売る「荒物屋」が店棚を立てて活気に満ち溢れていたといいます。


イメージ図(AIにて作成)
イメージ図(AIにて作成)



※市庭(いちば)・・・毎日又は定期的に商人が集まって商品の売買取引をする特定の場所 ※保頭(ほがしら)・・・荘園の行政単位である「保(ほ)」における有力な経営者・管理者のことをいう。領主に代わって年貢をまとめたり、市場の管理(市庭保頭)を行ったりしました。



3. 荒町から万町へ


 時代を経て「荒町」から「萬(万)町」へと変化した地名もあります。 「萬」には「あらゆる(すべての)」という意味が含まれています。  能代市にある「万町」もそのひとつです。  荒町⇒萬町⇒万町と変化したと考えられます。

身近な町の名前にも、いろいろな歴史が詰まっていますね。 このような歴史的事実を見つけてみんなで話し合うのが楽しいです。


能代市万町の位置
能代市万町の位置


そして今回はもうひとつのテーマについても話をしました。 こちらは資料が足りずそんなに深くは掘り下げてお話できなかったのですが、 記録として載せておきたいと思います!



それは、能代に関わりがあったらしい、「白粉方」です。


みなさんは「白粉方」という言葉を知っていますか?

白粉方は、藩政後期の史料に出てきますが、詳細は不明です。 藩の殖産策の一環を担った役のようです。


文禄年間(1592~1596)には、堺の菜種商人小西清兵衛(豊臣秀吉の重臣小西行長の父)が明から白粉の製法を伝習したといわれています。 白粉顔料として白土、貝殻粉、穀粉(もち米など)、鉛白粉などがあり、白粉草は夕化粧草(ゆうげしょう)とも言われています。


 畑町(昔の畠町の表記)の小嶋直右衛門は文政期藩御用商人、銅山方、木山方、郡方の白粉御用局御蔵元に任命されており、畿内から運んできた鉛白粉の専売だけでなく、紅花、浜ナス、白粉草を集荷して廻船問屋に販売していました。

  文政年間(1818~1830)畑町の大坂屋三五郎は、化粧用香水の原料となる浜ナス方蔵元として、集荷販売を一手に営んでいます。

畠町の「大三の坂」の名の由来となっています。


介川東馬( すけがわとうま )※の日記の中に、【天保8年(1837)6月28日、能代を訪れた介川が「白粉方役所」においてその製造行程を見分した】という内容があり、その担当が下代(しただい)の三輪謙蔵(みわけんぞう)とされていることからすると、能代に本拠地があったようです。 場所は養蚕地区の説があります。



介川東馬( すけがわとうま )※ ・・・秋田藩の改革派官僚を代表する一人







次回(8月19日予定)は、能代市出身の作曲家【成田為三】について勉強する予定です!

お楽しみに!!



 
 
 

コメント


bottom of page